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タイムスリップ/50年前、「原子の火」ともる
2007年07月16日(月)朝日新聞 科学面
日本初の「原子の火」から、今年でちょうど50年。その火をともしたのは、唯一の被爆国の研究者として原子力平和利用の未来を信じ、現在の技術や産業の礎を築いた男たちだった。
◇40センチの炉、産業の礎に
茨城県東海村にある日本原子力研究開発機構の東海研究開発センター原子力科学研究所。そこに日本初の原子炉JRR1はある。今も見学可能な資料館として残る。1957年8月27日午前5時23分。核反応が続く臨界は、4本ある原子炉制御棒のうち最後の1本を引き抜く途中で始まった。「05:40Aug27・1957」。出力計の記録には、初臨界が収束した時刻がペンで書き込まれている。制御棒操作担当の運転員だった苫米地(とまべち)顕(けん)さん(78)=元日本原子力研究所那珂研究所長=が書いた。「スイッチを握っていた右手の指の感触は今も忘れません」
◇突然の予算案 研究再開
戦後、日本は連合国軍総司令部(GHQ)から原子力研究を禁じられた。再開のきっかけは53年12月8日、国連総会でのアイゼンハワー米大統領の演説だった。「アトムズ・フォア・ピース」。原子力の平和利用のために、米国がウランを貸し出すことを宣言した。
「ようやく研究できる」。大阪大の原子核物理学者伏見康治さん(98)=元日本学術会議会長=は、同会議で研究推進の基礎調査を提案する。だが若手から「米ソ対立が解けるまで手を出すべきでない」と猛反発をくらった。「科学技術が戦争に利用されてはならないという意識が、研究者の間に強くあった」と伏見さん。
学術会議の紛糾をよそに翌54年、当時改進党の衆院議員だった中曽根康弘元首相(89)らが突如、原子炉製造のための修正予算案を提出。伏見さんは平和利用に徹すべしと、一晩で書き上げた「原子力憲章」を学術会議に提出した。その「民主」「自主」「公開」の原則は、今も原子力基本法の中に息づく。
◇運転8千時間 技術者育てる
JRR1の運転開始は、その3年後のことだ。米国から輸入された直径40センチの球形の原子炉に、米国から借りた濃縮ウラン溶液が臨界量を超えて入れられた。湯沸かし型と呼ばれ、熱出力わずか50キロワットの小さな炉。「だが、日本の研究者にとっては初めて見る原子炉。実物に触れた意義は大きかった」と苫米地さんはいう。運転を終える68年まで、総運転時間8043時間。ネズミに中性子を当て生殖機能への影響を調べるなど、619件の実験をした。1944人の技術者を養成。後に高速増殖炉や核融合など原子力研究で中核となる人材を育てた。運転開始は原子炉等規制法の施行前。原発の運転ルールを定める保安規定ももちろんない。JRR1の運転実績を踏まえて、少しずつ体制が整えられていった。当時の運転班長で、後に原子力安全委員長を務めた佐藤一男さん(73)は「あそこで学んだ技術者らにより、技術基盤が日本に生まれた。60年代末から本格化する安全研究の下地になった」という。
50年を経て、国内で現在運転中の原発の熱出力は最も大きいものでJRR1の8万倍近くになり、電力業界の原発関連支出は年1兆7千億円に達する。「原発は少数の者が動かしているが、実は社会の大きな仕組みの中にある。当時の技術者はそれを自覚し、原子力の持つ内在的な危険性に畏敬(い・けい)の念をもって接してきた」と伏見さんはいう。「だが、原発が生活の一部になり、慣れっこになっていないか。怖いものだという感覚がなくなってしまう。それが一番怖い」
以下は、新聞には出なかったが、同社のサイトに掲載された。http://science.asalon.asahi.com/
《筆者の坪谷英紀から》
今回、新聞に掲載した「原子の火」の写真は、日本で撮影された初めてのチェレンコフの光です。1958年12月24日の朝日新聞に特ダネ写真として掲載されたものです。当時はもちろん、白黒でしか掲載されなかったのですが、今回50年ぶりにカラー写真で掲載することができました。朝日新聞のカメラ機材を使って、記事に登場する苫米地顕さんが撮影しました。「アクリル板を入れて、鏡で反射させて撮りました。当時は珍しかった500ミリのレンズを使って、苦労しました」と苫米地さん。 |
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