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品川硝子と東海寺の地図(江戸→明治→現代)
品川硝子製造所と、同所が置かれた東海寺について、地図を本文に載せましたが、それらを年代順に、まとめておきます。
1)江戸時代。
「江戸明治東京重ね地図」という出版物に掲載された安政3年(1856年)実測復元地図です。
明治時代が始まる10年ほど前の江戸末期の品川宿付近の地図で、中央が東海寺で、寛永15年(1683年)に、3代将軍・徳川家光によって建立されました。5万坪の広大な敷地に、地図で「XX院」とある17の塔頭が建っており、江戸で3本の指に入る大きな寺でした。
東海寺の鬼門、つまり東北の方角に鎮守(守り神)としての「品川神社」があります。品川神社は東海寺より遥かに古い1187年に源頼朝が建立したと伝えられています。
上の地図で富士山マークが描いてある場所です。下の版画のように、ここから富士山が見えたのでしょう。
東海寺の北側は「御殿山」という桜の名所でしたが、ペリー来航後に、大砲を置くためのお台場を建造することになり、山は崩されました。
(出典:「東海道・品川・御殿山の不二」葛飾北斎 『富嶽三十六景』 より。 |
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しかし、江戸幕府が崩壊し、明治元年(1868年)、明治政府は神仏分離令を出し、廃仏毀釈(仏教施設の破壊)が全国で行なわれるようになり、東海寺も廃寺となり、多くの塔頭が消滅しました。
現在は、玄性院、清光院、春秋庵(春秋寺)、品川神社が、当時の場所にありますが、建物は後代のものです。
2)江戸時代の地図、もう1件
下記は、嘉永5年(1852年)の「東海寺一山惣絵図」とされる地図に、品川歴史館の中野氏がその後の変遷を書き込まれたものです。
(出典:「品川鉄道事始」、品川歴史館、2012年発行)
この地図の上に、赤い文字で「品川県庁予定地」とあります。江戸幕府が崩壊し、いわゆる廃藩置県で、明治2年(1869年)に、品川県が設置され、その県庁を東海寺境内に置くことが計画され、それを江戸時代の地図に書き込んだ地図と思われます。なお、品川県は東京府に合併され、県庁は建設されませんでした。
また、この地図には、南北に東海道線の線路予定地、また、その西側に「工作局予定地(品川硝子製造所を所管していた官庁)」の記述も見られます。
3)明治5年(1872年)の「新橋横浜間鉄道之図」
下図は、明治5年(1872年)の東海道線建設の際に作成されたと推定される「新橋横浜間鉄道之図」です。(右側が北方向です)
新橋から品川までは海上に線路を建設し、品川駅から陸路を行く計画の地図で、この時点では目黒川付近の東海寺辺りには、何も建物がないことになっています。
(出典:国立公文書館デジタルアーカイブより抜粋)
4)明治14年(1881年)の古地図
品川硝子製造所が操業していた明治14年(1881年)に、参謀本部が測量した地図です。「工作分局」と記載されています。(出典:陸地測量部、明治14年測量、「品川」、国会図書館所蔵。)
5)明治20年(1887年)の古地図
官営の品川硝子製造所としての最後の時期の明治20年(1887年)の古地図です。
黄色い部分が品川硝子製造所、その上の緑部分が大山墓地、茶色は東海道線です。上の地図と比べると、ピンク色の山手線が敷設されています。
(地図の出典:「江戸切子」山口勝旦,2009)
6)明治末期の地図
最初に紹介した出版物「江戸明治東京重ね地図」に掲載された明治40年(1907年)前後復元地図です。
品川硝子製造所は、明治18年(1885年)に西村勝三らに払い下げられ、明治21年(1888年)に「有限責任・品川硝子会社」が設立されますが、結局、事業に失敗し、明治25年(1892年)に、解散します。
その後、明治33年(1900年)に岩城硝子株式会社が工場を譲り受けますが、明治34年(1901年)、同工場を閉鎖します。
結局、工場と敷地は、明治41年(1908年)に第一三共株式会社が購入し、現在も同社の建物があります。
なお、品川硝子の西側に「品川白煉瓦製造所」が載っています。ここは品川硝子会社と同じく西村勝三の会社で、耐火煉瓦を製造していました。この場所に工場はありませんが、同社自体は現在も操業しています。
6B/6C)品川硝子の敷地
上記の地図を左下に拡大してみました。「東京府・荏原郡・北品川・292番地」が、品川硝子の所在地と記載されていますが、286番地から291番地までは記載がないので、286番地から292番地までが品川硝子の所在地かも知れません。
中央は昭和36年(1961年)に同所の一部の建物が測量された際の論文から転載したものです。それによると、明治10年に下記@窯場が完成し、、明治12年にA薬品庫、明治14年にB硝子仕上げ所、坩堝製造所が竣工したとのことです。
(出典:、「 写真測量を応用した建築の実測 : 旧工部省品川硝子製造所建築の実測」村松貞次郎、伊藤三千雄、1962年)
右下の写真は、明治43年(1910年)頃に撮影されたもので、地図と合わせる為、横向きにしています。
7)現代の地図
現在は、玄性院(地図では東海寺と記載)、清光院、春秋庵(春秋寺)、品川神社が、当時の場所にありますが、建物は後代のものです。また、沢庵墓等と記載のある場所は「大山墓地」です。
8)グーグル航空写真
上記とほぼ同じ場所の航空写真です。
2014年8月作成。
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