大重仲左衛門について
1)始めに
明治時代に、品川硝子製造所(以下、品川硝子)で、お雇い外国人ジェームズ・スピードから硝子器の製造技術を教わった伝習生の一人「大重仲左衛門」については、ネット上に殆ど情報がありません。
2016年に、大重の曾孫(大重の娘の長男の息子の渡邊様)より、新発見の肖像写真その他の情報を頂いたので、ここに記録しておきます。
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2)大重仲左衛門の経歴
大重仲左衛門(おおしげ ちゅうざえもん)の経歴については良く分かっていません。
安政4年(1857年)に薩摩で生まれ、薩摩切子職人の弟子であったと伝えられています。
当時、薩摩切子で有名な鹿児島の集成館は文久3年(1863年)の薩英戦争で焼失し、その後、薩摩切子職人達の一部は東京に移り住んだので、恐らく、東京でガラス職人としての技術を学んだと推測されます。
従って、大重は明治11年(1878年)に品川硝子に入所しましたが、品川硝子の単なる伝習生ではなく、経験のあるガラス職人として入所したと思われます。
品川硝子が設立されたのが明治9年(1876年)で、明治12年(1879年)に英国人ガラス技術者ジェームス・スピード(James Speed)を雇い入れ、エマニエル・ホープトマン(Emanuel Hauptmannが明治14〜15年に、切子技法やグラヴィール技法を伝習生に教えました(別紙記事参照)。
なお、官営の品川硝子製造所は、明治21年(1888年)に民営化され、有限責任・品川硝子会社となり、業務を拡大するも、板ガラス製造に失敗したことなどにより、明治25年(1892年)、遂に解散します[Ref.1]。
山口勝旦は著書で「大重は、品川硝子で吹き職人として活躍し、作品(後述)を見ると、グラヴィール技法にも精通していた可能性が高い」としています[Ref.2]。
実際、明治16年(1883年)2月に撮影したとされるジェームズ・スピード退所時の送別写真(4章参照)で、J.スピードの左隣にいることからも、大重は同所で重要な位置を占めていたと推測できます。
大重は、明治21年(1888年)に退所する時点で「マイストル」という親方職を得ていたことが分かっています[Ref.1]。
大重は、明治21年の退所後に、品川硝子の伝習生で切子師の横山某と、芝・三田に「大山舎」という硝子工場を設立し、食器・花瓶類の製造をし、切子やグラヴィール加工をしていたとされます。
大重と横山から1字ずつ取って「大山舎」と命名したと推測されますが、大重が明治24年に35歳の若さで亡くなり、大山舎のその後は不明です。
3)大重仲左衛門の肖像写真
大重の曾孫(大重の娘の長男の息子の渡邊様)より、大重仲左衛門の肖像写真(電子データ)を頂戴しました。今まで、彼の写真の所在は知られておらず、多分唯一のものと思います。
また、写真の裏側に、彼が亡くなった時の様子などが記載されており、皇室御用達のガラス職人だったことや、亡くなる直前まで職人としての勤めを果していたことが分かります。(ウランガラス同好会の大井さんの助力で解読)。
4)ジェームズ・スピードの送別写真
右下は、明治16年2月のスピード氏退職時の送別写真の拡大です。
以前から「スピード氏の左が大重ではないか」と言われていましたが、間違いなく大重と確認できました。
J.スピードの左隣にいることからも、大重は同所で重要な位置を占めていたと推測できます。
(なお、J.スピードの右隣は、工場総責任者の藤山種廣です。
なお、東京国立近代美術館の「作家総索引」は、大重仲左衛門の読み方を「おおしげ なかざえもん」と誤って記載していますが、正しくは「おおしげ ちゅうざえもん」です。
[Ref.1] 井上曉子「品川硝子について」日本ガラス工芸学会誌、No.
6&7、1979年
[Ref.2] 山口勝旦「江戸切子」里文出版、1993年
[Ref.3] 土屋良雄「日本のガラス」紫紅社、1987年
(2016年3月記事)
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