品川硝子製造所の歴史(History of Shinagawa Glass Factory)
近代ガラス工業の礎となった品川硝子製造所の歴史に関連して、その昔と今について、調べてみました。元々「日本で最初にウランガラスが製造されたのは品川硝子製造所と推定される」ということは大森潤之助さんの著書「日本のウランガラス」で知っていましたが、2014年に英国のSally
Haden氏からメールが来て「5章に出てくる英国人(James
Speed)の子孫で、色々調べている」とのことなので、文献などを調べ、各機関に調査をお願いしたり、現地調査した結果を纏めたという次第です。
1)品川興業社
近代ガラス工業の礎となった有名な「品川硝子製造所」は、明治6年(1873)年に品川興業社・硝子製造所が開設されたことに始まります。
太政大臣・三条実美の家令だった村井三四之助は、三条実美の支援により、英国から設備を輸入すると共に、トーマス・ウォルトン(Thomas Walton)を招聘し、国内のガラス職人を採用しました。
しかし、ガラス器の製造は困難で、明治9年(1876年)、政府に買い上げを願い出ます。
2)品川硝子製造所
品川硝子製造所は、政府の殖産興業政策を受けて、明治9年(1876年)に工部省が上記の興業社を買い上げ、官営の「品川硝子製造所」となり、工場の拡大を図りました。
明治12年(1879年)に英国人ガラス技術者ジェームス・スピード(James Speed) らを雇い入れ、板ガラスの製造を目指したものの、これを達成することは技術的に困難でした。
斑色硝子瓶と斑色硝子筆筒
明治14年(1881年)に品川硝子製造所(品川工作分局硝子製造所)で製作されたもので、同年に開催された第2回内国勧業博覧会へ出品されました。
高さ22cm,17cm,15cm,
(東京国立博物館所蔵品アーカイブより)
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明治18年(1885年)に、政府は品川硝子製造所を西村勝三、稲葉正邦に払い下げ、民営化を図ります。
明治21年(1888年)西村らは「有限責任・品川硝子会社」を設立し、業務を拡張します。
当時の製品は殆ど残っていませんが、明治22年(1889年)7月11日の東京朝日新聞の広告(右記)では、食卓用の各種ガラス器を製造していたことが分かります。
唯一、現物の所在が確認されているのは、神戸市立博物館が所蔵しているプレス皿だけです。直径15cm(★).
なお、右端写真は同一品を所蔵している某個人からの提供。
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(★:棚橋淳二「品川硝子製造所遺構発掘ガラス片類似のプレスガラス」(1995年)。左をクリックして「PDF」ボタンを押せば、本文だけは読めます。
ビール瓶製造
品川硝子会社は、ドイツ人技術者を雇用し、日本で始めての大量生産によるビール瓶製造に乗り出します。それは丁度、品川硝子会社が操業を開始した明治21年(1888年)に、横浜のビール会社「ジャパン・ブルワリー(現在のキリンビール:麒麟麦酒株式会社)」が、麒麟を商標にしたビールを販売開始した時期でした。品川硝子会社はキリンビール用にビール瓶を納入することに成功し、明治22年(1889)には最高の150名の職工がいたとされています(出典:品川歴史館。講演記録)。
なお、キリン歴史ミュージアムHPには、明治21年(1888年)の重役会議事録(英文)があり、10月分を見ると、品川硝子会社との契約に関する議事が掲載されています。
左端は第一三共株式会社が所蔵している品川硝子会社のビール瓶(写真は白黒)で、現在は明治村が1本、品川歴史館が1本、所蔵しています。
2番目は、ボトルシヰアター庄司氏より入手の品川硝子製と推定されるビール瓶で、高さ約29cm、重さ840gと、現代物(約600g)よりかなり重く、比重は現在のものと同じなので、鉛ガラスではなくてソーダガラス製で、ガラスが4割も厚いためです。底が2cm位凹んでいてガス圧に耐える設計なのも面白いです。
当時はコルク栓で、右端の現在のビール瓶のように王冠で蓋をするのは明治33年からだそうです。
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第一三共 |
庄司氏 |
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現代物 |
キリンビールの設立には、長崎のグラバー邸で有名な英国商人:トーマス・グラバーが深く関わっていました。
彼は明治20年(1887年)から7年間、ジャパン・ブルワリー社の重役で、明治22年(1889年)のキリンビールの商標には、彼が好んだ麒麟のデザイン(現在と殆ど同じもの)が採用されました。
[「キリンビールとグラバー(同社HP)」は、ここをクリックして下さい。 |
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右の写真は、品川硝子会社が、大量のビール瓶を、出荷の為に積み上げている時のもので、明治22年(1889年〕頃と思われます。
(出典:品川歴史館所蔵写真)
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しかし、板ガラス製造に失敗したことなどにより、ガラス事業としては成功せず、結局、明治25年(1892年)、遂に解散することになり、約20年の幕を閉じました。
明治6年〜明治9年、興業社(民営)
明治9年4月〜明治10年1月、工部省製作寮所轄・品川硝子製造所
明治10年1月〜明治16年9月、工部省・工作局・品川分局
(明治13年(1880年)、品川と大森の間が複線化)
明治16年9月〜明治17年2月、工部省直轄・品川硝子製造所
明治17年2月、西村勝三に貸し渡し。明治18年5月に払い下げ
(この期間の名称は品川硝子製造所のままか?)
明治21年5月〜明治25年11月、有限責任・品川硝子会社(民営)
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この品川硝子製造所が、明治13年に英国から酸化ウランを輸入していたとの記録があり、これが日本で最初のウランガラス製造だったと推定されていますが、現物は発見されていません。(詳しくは「日本のウランガラス」大森潤之助。参照)
品川硝子製造所は、その後、同所の伝習生だった岩城瀧次郎が創設した岩城硝子株式会社が、明治33年(1900年)、工場を譲り受け、板ガラスの試作を試みるも失敗し、明治34年(1901年)、同工場を閉鎖します。
(出典:「日本のステンドグラス史、神奈川のステンドグラス」田辺千代
結局、
品川硝子の工場の土地と建物は明治41年(1908年)に、高峰譲吉らが創設した第一三共株式会社が購入し、2015年まで同社の建物がありました。
高峰譲吉は明治の偉人の一人で、ホルモン(アドレナリン)を世界で初めて発見し、ノーベル賞に輝いても良い人物でした。富山県・高岡市の出身で、同市には銅像が建っています。また、高峰譲吉は消化薬を発明し、大成功を収めました。皆さんも一度はお世話になったことでしょう。
2016年に、第一三共はこの土地をJR東海に売却し、ここにリニア新幹線の変電所が建設されることになりました。
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品川硝子跡の第一三共建物はリニア新幹線変電所に |
解体現場(2016年2月に筆者が大山墓地から撮影) |
品川硝子製造所の全景
「大日本全国名所一覧」の原著が出版されたのは明治12年(1879年)とのことなので、この写真はそれ以前ということになります。
一方、品川硝子製造所が設立されたのは明治9年(1876年)なので、それ以降、つまり、明治10-11年(1877-1878年)に撮影されたものと考えられます。なお、下記資料(★1)では、明治9-10年の撮影と推定しています。
この鉄道は単線になっています。日本で最初の鉄道が開始された明治5年(1872年)には、単線でした。
全ての列車などは英国から輸入されたもので、写真の右端に、去り行く列車が小さく写っています。
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「大日本全国名所一覧」より。 |
(★1:井上 曉子「興業社と官営品川硝子(1)建築と設立背景をめぐって」日本ガラス工芸学会誌
(53), p10-31, 2009年
これと次の写真では、線路が複線化されており、少し後のものと思われます。調べてみると、品川と大森の間(つまり、この写真の場所)が複線化されたのは明治13年(1880年)とのことです。
従って、これら2枚の写真はそれ以降の撮影で、「大日本全国名所一覧」(明治12年(1879年)出版)に掲載されたものではない、ということになります。
この写真は「大日本東京寫眞名所一覧表」に掲載されているとのことで、下記資料(★2)によれば明治14年(1881年)撮影、また、上記資料(★1)によれば明治20年代初め迄の撮影、とのことです。
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★2:Sally E. Haden「They went “to larn ‘em”:
British glassmakers help to establish Japan’s
first western-style glassworks, 1874ー1883」Glass
Sci. Technol, 2013, 54 (1), 25-30
および右記の英文HP:http://www.hadenheritage.co.uk/Glassmaking/
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(博物館明治村様より提供★) |
明治27年(1894年)撮影の彩色写真
(国立科学博物館所蔵。周辺加工後) |
左上写真は、上記資料(★1)において「この写真は明治41年(1908年)に第一三共株式会社が購入した後の、明治43年(1910年)頃と思われる」とのことです。
品川硝子製造所が明治25年(1892年)に解散した後、第一三共株式会社が購入するまで、建物は解体されなかったはずで、両方の写真はほぼ同一の風景が写っている、ということでしょう。
写真には、こちらへ向かうSLが小さく写っています。
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(★出典:「工部省品川硝子製造所記念展示」博物館明治村編集、1970年)
品川硝子製造所の現在
品川硝子製造所があったのは、東海寺の境内で、明治5年(1872年)に開通したばかりの東海道線の線路脇で、前は目黒川でした。原料や製品を輸送するのに都合の良い場所だったと言うことでしょう。左端の白いビルの場所がそうです。
(当HP管理人撮影、2014年)
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品川硝子製造所が解散した後、この土地と建物は最終的に、製薬会社の第一三共株式会社が明治41年(1908年)に購入し、現在も同社の建物があります。
品川硝子製造所の名残を示すものとして、跡地に「史蹟 官営品川硝子製作所跡」と「近代硝子工業発祥の地」という石碑が建っています。
後の白いビルは第一三共株式会社です。
石碑の右側を行くと、大山墓地に出ます(9章参照)。
(当HP管理人撮影、2014年)
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品川硝子製造所跡地の記念碑
茶色の石碑の碑文は下記。
石碑の右下の小さい石はガラス原料の硝石。
記念碑の右側の小道を100m行くと、大山墓地に出る。
(当HP管理人撮影、2014年) |
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近代硝子工業発祥之地
此ノ地ハ本邦最初ノ洋式硝子工場興業社ノ跡デアル 同社ハ明治六年時ノ太政大臣三条実美ノ家令丹羽正庸等ノ発起ニヨリ我国ニ始メテ英国ノ最新技術機械施設等ヲ導入シ外人指導ノ下ニ広大ナ規模ト組織ニ依テ創立サレタモノデアル
然ルニ最初ハ技術至難ノタメ経営困難ニ陥リ同九年政府ノ買上ゲル所トナリ官営ノ品川硝子製作所トシテ事業ヲ再開シタ 同十七年ニハ再ビ民営ニ移サレ西村勝三其ノ衝ニ膺リ同廿一年品川硝子会社トシテ再興ノ機運ヲ迎ヘタガ収支償ハズ同二十六年マタマタ解散ノ已ムナキニ至ッタ
其ノ間育成サレタ技術者ハ東西ニ分布シテ夫々業ヲ拓キ斯業ノ開発ニ貢献シ本邦硝子興業今日ノ基礎原動力トナリ我国産業ノ興隆ニ寄与スル所頗ル大ナルモノガアッタ
吾等ハ其ノ業績ノ偉大ナルヲ偲ビ遺跡ノ保存ヲ図ッタガ會々此ノ挙ニ賛シタ 三共株式会社ハ進ンデ建設地ヲ無償提供サレタ 斯クテ有志ノ協賛ト相俟ッテ今茲ニ由緒アル発祥地ニ建碑先人ノ功ヲ不朽ニ伝フルヲ得タノデアル
昭和四十年十二月 |
(筆者注:石柱と碑文は「製作所」と彫っていますが「製造所」が正式名と思います)
現在、品川硝子製造所の建物の一部は、愛知県・明治村に移設されています。
(右写真は旅おりおり様撮影)。 |
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3)品川硝子製造所の伝習生
品川硝子製造所は、事業としては失敗したものの、英国等から技術者を招聘して伝習生を育成し、ここで育った伝習生が日本各地に散って日本のガラス産業の草分けになりました。
日本で初めてステンドグラスを作り、後に岩城硝子の創始者となった岩城瀧次郎をはじめ、徳永玉吉(徳永硝子★下記)、谷田磐太郎(東京硝子)などがおり、名前が判明している切子職人だけでも20人がいました。伝習生の数は「ガラスの百科事典」によると「明治13年(1880年)の東京日日新聞に『品川硝子製造所の職工は75名』との記事があった」とのことです。
日本で本格的にガラス器を製造販売した島田孫市も伝習生の一人で、明治21年(1888年)に大阪で「島田硝子製造所」を設立しています(「日本のウランガラス」という別頁に記事あり)。同社は戦後「東洋ガラス株式会社」と社名変更し、現在も営業しています。
なお、当時の大阪はガラス産業が盛んで、上記の島田硝子のほか、三好鹿蔵が明治19年(1886年)に創業した三好硝子製造所も大量にプレスガラス器を製造していました。三好がどのようにしてプレス技術を習得したのかは分かっていません。
(出典:棚橋淳二「三好鹿蔵製造のプレスガラス」1〜7、1996年)
しかし、英国風のデザインや特徴から、品川硝子の技術を採用していたと推測されます。
★:大阪市立中央図書館の調査では「大阪市の徳永玉吉(良い名前!)が始めた徳永硝子製造所が、明治25年(1892年)、ビー玉とラムネ瓶の大量生産に成功し、これによって、日本中にビー玉遊びが広がった」としています。
(右端写真は徳永硝子製とされるラムネ瓶で、ボトルシヰアター様提供)
(その左は現代物のビー玉)
なお、ラムネ瓶は、1872年に英国人ハイラム・コッド(Hiram Codd)が発明し、コッド・ボトル(Codd bottle)と呼ばれていました。その後、海外では廃れてしまい、製造しているのは日本だけとの記載があります(★)。
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(★:Wikipedia記事:
http://en.wikipedia.org/wiki/Hiram_Codd )
4)江戸切子
江戸切子は、江戸時代の天保5年(1834年)、加賀屋久兵衛が、江戸で金剛砂を用いてガラスを彫刻し、切子細工(カットグラス)を始めたのが最初とされています。
その後、品川硝子製造所の英国人技師:ホープトマン(次章参照)によって、カット技術が伝習生に教えられ、近代工業の要素を取り入れて、今日まで長く存続する基礎を作りました。
伝習生の名前として、大橋徳松、黒田作太郎、山口丸太郎など20名以上の名前が知られています(★)
右は現在も作られている江戸切子の例ですが、薩摩切子が色硝子を被せてカットをしたのに対し、当時の江戸切子は第2章で載せたような透明な硝子にカットした製品が殆どでした。 |
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(★出典:「江戸切子」山口勝旦,2009)
「大阪ガラス発祥の地」の石碑
大阪市北区にある大阪天満宮の正門西側に「大阪ガラス発祥之地」の石碑があります。
その碑によると、江戸中期の宝暦年間(1751〜1764)に大阪天満宮の前でガラスの製造を始めた長崎の商人・播磨屋清兵衛が「大阪ガラス商工業ノ始祖」だとされています。
播磨屋清兵衛は、オランダ人が長崎に伝えたガラス製法を学び、大阪に持ち込んだのです。
(以上は大阪市立中央図書館の記事より)
前記の江戸切子創始者の加賀屋久兵衛は、店の職人を大阪へ送り、そこで初歩的な切子技法を学ばせ、江戸で切子技法を完成させた、と推測されています。(山口著「江戸切子」より)
その後、品川硝子製造所で近代ガラス工業が始まり、伝習生と英国人技師の一部は大阪へ移り、天満一帯は「リトル・シナガワ」と呼ばれるようになり、明治の終わりには大阪のガラス工業は東京より盛んになりました。
右写真は「ブログ大阪村」様より許可を得て転載。
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右は品川硝子製造所の職工だった大重仲左衛門の作品「金赤色被桜文硝子花瓶」 で、品川歴史館に展示されています。
白色ガラスに金を用いた赤色ガラスを被せ、削り取って白い桜を浮かび上がらせた高度な芸術作品です。
(写真は同館提供)。 |
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出典:江戸切子組合、Wikipedia(江戸切子)、堀口硝子(上記の大橋徳松の直系)
@ウォルトン:Thomas Walton、明治7-11年(1874-1878年)まで雇用。
Aスキッドモア:Elijah Skidmore、明治10-14年(1877-1881年)まで雇用。その後、大阪でルツボ技術の指導。
Bスピード:James Speed、明治12-16年(1879-1883年)まで雇用。その後、伊藤契信が大阪で設立した日本硝子株式会社でガラス技術を指導。
Cホープトマン:Emanuel Hauptmann、明治14-15年(1881-1882年)まで雇用。切子(Cutting)技術を指導した。
明治 |
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ウォルトン |
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スピード |
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ホープトマン |
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(★出典:井上 曉子「明治初期のガラス技術の輸入」ガラスの百科事典、及び「江戸切子」山口勝旦,2009)
ジェームス・スピードの肖像写真
この写真は、ジェームス・スピードから指導を受けた島田孫市の子孫が所有していたもので、スピードが雇用されていた明治12-16年(1879ー1883年)の間のものと思われます。
(出典:前記Haden氏論文。写真は島田孫市の曾孫の島田修様の了解を得て掲載しております)
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この写真は「品川硝子製造所記念展示★1」に掲載されているもので「スピード氏の送別時の記念写真で、明治15年(1882年)撮影」とあります。(博物館明治村様より提供★1)
この写真には、多くの日本人伝習生が写っているはずで、島田孫市、藤山種広については、下記に記事があります。
(「James Speed氏送別時の記念写真の件」(ここをクリック)。
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「品川区文化財調査報告書〈昭和42年度〉」では「明治16年2月のスピード氏退職時に撮影」
とあり、こちらの方が正しいように思われます(2015年2月追記)。
この写真も「品川硝子製造所記念展示」に掲載されているもので、前列に数名の外国人らしき姿が写っています。
撮影は上記写真と同年代でしょうが、浴衣姿や団扇が見えるので、夏祭り時期かも。
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(博物館明治村様より提供★1)
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こちらは明治村のパンフレットの写真で、工場のルツボ釜の前で作業している風景のようです。 |
(博物館明治村様より提供★2)
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(★1出典:「工部省品川硝子製造所記念展示」博物館明治村編集、1970年)
(★2出典:博物館明治村ガイドブック)
品川硝子製造所で指導した英国人ジェームス・スピードらは大阪へ移ってガラス製造を指導し、前記の島田孫市の会社・島田硝子は少量の板ガラスを明治36年(1903年)に製造しますが、事業化には至りませんでした。
三菱財閥の一員の岩崎俊彌は、一時、島田硝子に参加するものの、明治40年(1907年)に島田と袂を分かち、旭硝子株式会社を設立します。そして、旭硝子が明治42年(1909年)、ついに日本初の板ガラス事業化に成功します。
当時の板ガラス製造は、最初にガラス円筒を吹き込みで製造し、それを切り開いて平板を作るというものでした。中間製品のガラス円筒が「日本の未来技術遺産」および「日本の化学遺産」に認定されています。
最初にこの円筒の現物を見た時は驚きました。「丸い板ガラス??どうやって板ガラスにしたのだろう?」と。
日本最古級の板ガラス用ガラス円筒
国立科学博物館・重要科学技術史資料(未来技術遺産)第4号
所有者:旭硝子株式会社
製作年:1909〜1920年
初期の板ガラス製造法であるベルギー式手吹法によって製造されたガラス円筒。
ベルギー式手吹法とはガラスの溶融素地を吹棹で円筒状にし、端部を切断した上で、縦に切込みを入れ、加熱して板状にする方法。
日本で初めて板ガラスの工業生産が開始された頃のもので、窓ガラスへ利用されるなど、快適な生活様式の創出に顕著な役割を果たした。
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出典:http://www.kahaku.go.jp/procedure/press/pdf/17924.pdf
http://www.chemistry.or.jp/know/heritage/02.html
参考文献@:「Building a Modern Japan, Science,
Technology, and Medicine in the Meiji Era
and Beyond」 Morris Low編集、Palgrave Macmillan出版、2005年
A旭硝子・歴史写真館「ガラス事業の始まり(ここをクリック)」
電球の歴史は、明治12年(1879年)にエジソンが実用電球を発明したことに始まり、日本では、明治23年(1890年)に藤岡市助が設立した「白熱舎」で白熱電球が製造されました。(右写真は藤岡の電球)
藤岡の出身地:岩国市には「藤岡市助と岩国学校教育資料館(PDF)」というのがあり、電球などが展示されています。
またJR川崎駅前の東芝科学館でも、これらの電球を展示しています。
ウランガラスを使った「カナリア電球」については別頁参照。、
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8)東海寺(東海禅寺)
品川硝子製造所は東海寺の境内に建てられた訳ですが、ガラス工場を建てたのだから、余程広い敷地だったのか?また写真では寺の建物は見当たらず、どうしてこんな場所に建設できたのか?不思議に思い、当時の東海寺の状況を探ってみました。
東海寺は、江戸時代の初め、寛永15年(1683年)に、三代将軍・徳川家光が、沢庵和尚のために建てた寺でした。江戸市内の最大級の寺で、約5万坪(約16万m2)もの境内に、17の寺院がありました。
しかし、江戸幕府が崩壊し、明治元年(1868年)、明治政府は神仏分離令を出し、廃仏毀釈(仏教施設の破壊)が全国で行なわれるようになりました。
特に東海寺は将軍家と関係が深いとみなされ、廃寺となり、その領地は国有化されました。やがて、東海寺の多くの塔頭が破壊されました。そういう状況だったので、鉄道が開通した明治5年(1872年)、あるいは、品川興業社が設立した明治6年(1873)年には、明治政府の工業推進政策もあって、国有で広大な敷地を利用することが出来たのではないか、と推測しています。
この場所は、日本初の鉄道(現在の東海道線)の線路脇で、また、前は目黒川でした。原料や製品の輸送に都合が良い場所だったのでしょう。
現在では、東海寺の跡地に、「東海禅寺」という石碑と、仏殿などが建っています。
今の東海寺は、塔頭のひとつだった「玄性院」がお寺の名前を引き継いだもので、仏殿は昭和5年(1930年)の建築です。
(当HP管理人撮影、2014年)
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東海寺の脇には、江戸時代の古地図が載った看板があります。
この地図は安政4年(1857年)に描かれたもので、縮尺が書かれていませんが、「XX院」とあるのが東海寺だったとのことなので、現在の地図と比較すると、約300x500mもの広大な寺だったことが分かります。
右が北方向らしいです。東海寺の真ん中を流れているのが目黒川。
(当HP管理人撮影、2014年)
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「安政6年(1859年)に、須原屋茂兵衛版の江戸大絵図」というのが出版されていて、こちらの方がもう少し明確に分かります。東海寺は「XX院」とある箇所とのことなので、水色に塗ってみました。
今の東海寺は、塔頭のひとつだった「玄性院」がお寺の名前を引き継いだもので、「玄性院」の名前は、地図の東海寺の中央、目黒川の北側に見えます。
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天保5ー7年(1834-1836年)に出版された「江戸名所絵図」の中に品川・東海寺が描かれています。 |
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品川硝子製造所の上(北側)に、東海寺の墓所「大山墓地」があります。
東海寺の開祖:沢庵和尚のほか、日本の鉄道の父と言われ、東海道線などを建設した井上勝(後の鉄道長官)の墓もあります。
右の写真は、閑居小人様のブログから許可を得て転載しました。井上勝の墓碑の後を新幹線が走り抜けている、という見事な風景です。
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品川硝子石碑の右側の小道を100m歩き、大山墓地の右側の狭い通路をまっすぐ進むと、左手に大きな西村勝三(上述の品川硝子会社の社長)の墓地があり、3m位の大きな墓石が建っています。
更に進むと、2013年に亡くなった島倉千代子さんのお墓があります。
その先(大山墓地の終点)に、東海道線と山の手線を見下ろす場所に、井上勝の墓石と墓標があります。「鉄道記念物・井上勝の墓」という案内標が建っているので、直ぐに分かります。 |
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品川硝子会社を所有していた西村勝三は明治40年(1907年)に亡くなり、その墓は、品川硝子を見下ろすかのように大山墓地に建っています。
(西村の墓には案内板がありません)
(2014年、管理人の撮影) |
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品川神社と富士塚(当HP管理人撮影) |
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地図は江戸時代、富士塚は明治時代なので、地図の富士山印は、当時「この場所(御殿山)から富士山が見えた」ということでしょう (右下は北斎浮世絵)。
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9)日本最初の鉄道
元々、商業鉄道の歴史は、英国人ジョージ・スチーブンソン(George Stephenson)が1825年に営業運転を開始したことに始まるとされています。
それから約50年後、日本は英国から蒸気機関車など鉄道技術を導入し、明治5年(1872年)日本最初の鉄道が開設されます。
「新橋横浜間鉄道之図」
明治5年(1872年)の鉄道建設の際に作成されたと推定される新橋横浜間の鉄道路線図が「新橋横浜間鉄道之図」です。本図が含まれる公文附属図は、国の重要文化財に指定されています。
東海寺は、鉄道と目黒川が交差する辺りにあったはずですが、既に地図に記載がなく、品川硝子製造所が置かれた辺り(鉄道と目黒川が交差する地点の右上)は、この時点で空き地のように見えます。
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目黒川と品川駅の距離=2km |
(出典:国立公文書館デジタルアーカイブより抜粋)
右記は、品川硝子製造所が操業していた明治20年(1887年)の古地図です。
黄色い部分が品川硝子製造所、その上が大山墓地、下を目黒川(水色)が流れ、茶色は東海道線(複線)です。
地図の左に斜めの線路(ピンク色部分)がありますが、明治18年(1885年)に日本鉄道会社が敷設した新宿・池袋方面への単線(現在の山手線)です。
鉄道と目黒川が交差する角に、現在は、石碑が建っています。
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(地図の出典:「江戸切子」山口勝旦,2009)
Googleの航空写真で見ると、右のほぼ全体が東海寺の境内ということになり、広大な敷地だったことが分かります。
その真ん中に東海道線が敷設され、目黒川との交差付近に「品川硝子製造所」がありました。白いビルの当たりです。 |
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三代広重『汐留ヨリ横浜迄鉄道開業御乗初諸人拝礼之図』
明治5年(1872年)
横浜における開業式に向かう明治天皇のお召し列車が新橋駅を出発する際の錦絵です。
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「濱往返鐵道蒸氣車ヨリ海上之圖」三代広重画(明治7年)を見ると、下の明治村のSLと同型機だと言うことが良く分かります。
(SL部分のみの抜粋) |
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明治村のSL
右の蒸気機関車は英国製160形と言われるもので、明治7年(1874年)に英国で製造され、輸入されたSLの実機が明治村に動態保存されています。
上記のお召し列車のSLと同型機ではないか、と言われています。
140年前のSLが今も動いているとは凄いですね。
(犬飼裕治様2012年撮影:左のブログには他の写真も掲載されています)
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(以上、2014年3月記)
10)切子の技法
ガラス器を好きな方なら、切子のガラス器を一つはお持ちでしょう。ガラスの表面を削って溝を彫ったもので、特にウランガラスの場合、角の鋭い箇所から蛍光が出るので、素晴らしさが際立ちます。
日本では、江戸時代から製造された薩摩切子や江戸切子が有名です。
特に、表面に色ガラスを被せ、それを削って模様を付けた切子色被せガラスがきれいですが、日本のウランガラスでは殆ど見かけません。
今まで見たのは、TheAlfeeの坂崎幸之助さんが著書「和ガラスに抱かれて」に掲載された大鉢と、大森潤之助さんが著書に紹介したビールジョッキだけです。
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所で、江戸時代の切子は、現在と同じく「回転機(グラインダー)で削って製造された」と永年、考えられてきました。
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しかし、1987年、棚橋淳二教授が「江戸時代の切子は、回転機ではなく、ヤスリのような棒状金具の往復運動で製造された」という奇想天外な説を発表しました。
(棚橋淳二「江戸時代後期より明治時代前期にいたる切子の技法」)
皆様もお手元の切子を御覧になれば、細かい波模様が観察できます。これはガラスを回転機に押し付けた時にのみ、できる模様です。
所が、江戸時代の薩摩切子・江戸切子には、このような波模様がありません。「棒状金具の往復運動で製造された」という説は正しいのか、何故このような労力の掛かる技法を用いたのか、棚橋先生に色々伺い、現物や文献で検証しました。
詳しくは、ここ「薩摩切子・江戸切子の技法について」をクリックすれば、説明資料(PDF)が読めます。また、上記を右クリックして、ご自分のPCに保存することもできます。
なお、この説明資料は英文化され、ドイツのガラス雑誌に掲載されました。
「Cutting Technique of Satsuma Kiriko and
Edo Kiriko」Pressglas-Korrespondenz, 2016,
No.2
(本項は2016年7月掲載)
感想:品川硝子製造所は、いわば日本のガラス工業におけるビッグバンでした。多くのガラス会社の源となり、各種のガラス器製造は勿論、板ガラス製造、白熱電球、江戸切子など、技術と人間を日本各地に爆発的に拡散させた、と言えそうです。
20年弱の短い歴史で、数十万個以上の製品を販売しながら、刻印がないこともあって、確認された製品は僅か数点だけです。「幻の薩摩切子」でさえ、100点以上確認されていることを考えると、「幻の品川硝子製造所」とも言えそうです(2014年4月補記)。
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