英国人技師ジェームス・スピード氏 送別時の記念写真
1)ジェームス・スピード(James Speed)
品川硝子製造所でガラス器製造を指導した英国人技師:ジェームス・スピード(James Speed)は、明治12-16年(1879-1883年)まで同所に在籍しました。
James Speedは英国スコットランドで1834年に生まれ、ガラス職人として修行の後、1879年に日本へ渡り、品川硝子製造所で、多くの日本人伝習生に近代ガラス製造技術を指導します。1883年に同所を退所する際の送別時の写真が下記です。
彼は、その後、大阪の日本硝子株式会社で指導し、1883年または1884年に英国へ戻り、ガラス製作者および工場長として活動し、1908年になくなります。
(出典はJames Speed氏の子孫のSally E. Haden氏の下記HP:
http://www.hadenheritage.co.uk/Glassmaking/Shinagawa-glass-works.html
この写真は「品川硝子製造所記念展示★」に掲載されているもので「スピード氏の送別時の記念写真で、明治15年(1882年)撮影」とあります。
(★:博物館明治村様より提供)
「品川区文化財調査報告書〈昭和42年度〉」では「明治16年2月のスピード氏退職時に撮影」
とあり、こちらの方が正しいように思われます(2015年2月追記)。 |
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島田孫市:
上記写真を拡大したのが下記です。
「東洋ガラス100年の歩み」によると、最後列の右から4人目が島田孫市とのことです。(孫市氏のご子息(一郎氏)と、そのご子息(次郎氏)も確認された。)
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藤山種広:
中央に2名の外国人が写っています。右側の人は禿頭なので、左側がジェームス・スピードです。
右側は下記論文(★)によれば「品川硝子製造所の工場総轄だった藤山種廣と推定される」とのことです。
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(★出典:井上曉子「佐賀藩精錬方 藤山種廣の足跡」
藤山種広と確認されている写真は1枚だけです。
彼が佐賀藩藩士の時に、幕末の慶応3年(1867年)に開催されたパリ万博での写真です。
左上が藤山種廣で、前列中央は団長の佐野常民(後の元老院議長)です。 侍姿なので、これでは判別不可能ですね。
なお、佐野常民記念館によると「この写真の左端の机は、他の佐野の写真や、有名な坂本龍馬の写真に写っている机と同じなので、長崎で撮影されたと思われる」とのことです。
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(★出典:野中萬太郎「佛国行路記」および佐野常民記念館http://www.saganet.ne.jp/tunetami/con_17/con_17.html
井上氏が参照されたのは、明治7年(1874年)に開催されたウィーン万博での記念写真です。
この中に藤山種広がいることは分かっていますが、どの人物かは分かっていません。
しかし「丸印を付けた人物は、ジェームス氏送別写真で同氏の右隣にいる禿頭で髭の人物と同じ顔だ」との指摘です。
この写真は、「万国博覧会」吉田光那著にも掲載) |
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確かに、2つの写真を比べると、同一人物に見えます。 |
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その他の伝習生:
品川硝子製造所の伝習生は75名にのぼり、切子職人の名前だけで20名が判明しています。この写真から今後もっと発見されるかも知れません・・・と思っていたら、ある方から日本硝子製品工業会HPの下記資料を教えて頂きました。(2014年6月記) |
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2)エマヌエル・ホープトマン:Emanuel Hauptmann、
品川硝子製造所でガラスの切子技法を指導した英国人技師:エマヌエル・ホープトマン:Emanuel Hauptmann、は、1848年に英国で生まれ、明治14年 (1881年)に同所で雇用され、明治15年10月
(1882年)まで在籍しました。
彼がいつ帰国したかは不明ですが、その直後と思われます。
右の写真は、彼がボヘミア(現在のチョコ)に住む兄弟を訪問した際のもので、撮影時期は不明です。中央がエマヌエル・ホープトマン氏です。
彼のことは、日本の切子関係のサイトには度々登場しますが、写真が紹介されていないので、ここに掲載しました。
なお、本写真は、Emanuel Hauptmannの玄孫のDiane Irvine様から頂戴しました。
(正確には、Emanuel Hauptmannの姪のAnna Mann様(旧姓Anna Hauptmann)様が、Diane Irvine様へ渡されたコピーを当方が頂戴しました。)
転載は当HP管理人の許可を得て下さい。
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彼は1924年に亡くなります。
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